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フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵) : ミニ英和和英辞書
フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)[はくしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 

フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵) : ウィキペディア日本語版
フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)[はくしゃく]

第16代ダービー伯爵フレデリック・アーサー・スタンリー(、1841年1月15日 - 1908年6月14日)は、イギリス政治家貴族軍人
ヴィクトリア朝保守党政権で閣僚職を歴任した。元首相の第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは父である。
== 経歴 ==
1841年1月15日、第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーとその夫人エマ(の娘)の次男として生まれる。兄に第15代ダービー伯爵となるエドワードがいる。
1858年にイートン・カレッジを卒業し、近衛歩兵第1連隊に少尉階級で入隊した〔バグリー(1993) p.358〕。1862年には大尉に昇進する。
1865年に軍を辞してから保守党候補として出馬し、庶民院議員に当選、政界へ転じる〔〔バグリー(1993) p.359〕。
第二次ディズレーリ内閣では1874年から1877年まで、1877年から1878年までを務めた〔〔バグリー(1993) p.362〕。兄エドワードは第二次ディズレーリ内閣で外務大臣を務めていたが、露土戦争をめぐってディズレーリの方針に反発して1878年に辞任し自由党へ移籍した。一方フレデリックは保守党に留まったので、以降しばらく兄と険悪な関係になった(後に和解)〔。
兄の辞職後、内閣改造が行われ、フレデリックは枢密顧問官に列するとともにに就任した〔バグリー(1993) p.362-263〕。就任早々ディズレーリの意を汲んでインド軍マルタ島へ派遣した。ベルリン会議で講和条約が結ばれた後もインド軍をインドへ戻さず、条約で新たな英国領となったキプロス島に移した。フレデリック自身もキプロス島視察を行ったが、駐留軍の士気が低いと感じ、軍隊内の鞭打ち制度を廃止する意思を固めた。1879年に鞭打ち廃止を含む陸軍規則維持法案を提出したが、保守党内や軍部内からの反発が強く(鞭打ちは軍内の秩序維持のために必要不可欠な体罰と考えられていた)、可決させることはできなかった。結局この法案は自由党政権の第二次グラッドストン内閣で可決される〔バグリー(1993) p.363-364〕。
1885年6月に成立した第一次ソールズベリー侯爵内閣には として入閣した。1886年8月に成立した第二次ソールズベリー侯爵内閣でははじめとして入閣した。また同月にプレストンのスタンリー男爵に叙されて貴族院へ移籍している〔バグリー(1993) p.365〕。
1888年カナダ総督に転じた。フレデリックは小英国主義者である兄と違って帝国主義者であったため、カナダ総督の職務を「大英帝国の重要な歯車」として誇りをもっていたという。フレデリックの尊厳あるたち振る舞いはカナダ人からも広く尊敬されたという〔バグリー(1993) p.357-358〕。1893年に兄が子供なく死去したため、フレデリックがダービー伯爵位とノーズリー荘園を相続することになった。これを機にカナダ総督を辞職してイギリスへ帰国し、領地経営に専念するようになった〔バグリー(1993) p.365〕。
以降は政界の第一線から退くも、1895年から1896年にかけてはを務めた〔バグリー(1993) p.365-366〕〔。1897年から、1902年からプレストンのギルド市長、1904年から大英帝国連盟会長を務める〔バグリー(1993) p.367〕。
1908年6月にケント州ホルウッドで死去した〔バグリー(1993) p.369〕。爵位と家督は長男エドワードが継承した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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